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□■□■□ 【七緒のスチャラカ★介護日記】
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□■□■□───────────── 2013.08.31 ── Vol.0078 ──
  左半身マヒとなった父ヨシオ。母ヤスコと長女・七緒が自宅での
  介護を決意した!お気楽3人家族の、手探り介護マガジンです。
── CONTENTS ─────────────────────────
       ●スチャラカ日記 『 父の故郷を訪ねる』
       ●今日の母ヤスコ
       ●編集後記
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■□■…………… 『 父の故郷を訪ねる』 8月30日 ……………■□■

早いもので、父ヨシオが他界して一年。

慌ただしく日々を過ごす中で、我が家は新しい生活ペースを築き始めています。

去る5月のこと、母が
「やっぱり一度、閖上に行って来ようと思うのよ。そうじゃないと、なんかケジメがつかない気がして」と言う。

父が子供の頃、一家は東京の下町・墨田区向島に住んでいた。太平洋戦争末期の東京大空襲で焼け出され、祖母の実家がある宮城県名取市の閖上へ身を寄せ、父は十代後半までその近辺で過ごした。

祖母の実家そのものはもう無いけれど、親戚数人や友人は閖上に居るので、父は同窓会だの旅行だのと言ってはよく閖上や仙台へ行き、実質上の故郷として親しんでいた。

私は記憶も無いくらい小さな頃に閖上へ連れて行って貰ったきりで、その後
行ったことは無い。
母は父の同窓会や旅行に同行して、何度か足を運んだことがあるらしい。

ご存じの通り、2011年の東日本大震災で名取市閖上地区は津波の被害に遭い、住民の7人に1人が命を落とすという壊滅的な状態となった。

あの大災害を、特に被害が無かった千葉県の自宅のテレビで、見守るしかな
かった私達。
親戚や友人が何人か亡くなったと連絡が入り、何もかも瓦礫と化した故郷の映像を見ては、父はとても心を痛めていた。

かと言って、車椅子の身では現地へ駆け付けることもできず、ただただ悔しく悲しい想いを募らせていたようだ。

その後、父ととても親しくしていたAさんが、津波で家を失い避難所に居ることがわかった。
Aさんは父の幼馴染みの女性で、現役バリバリで地域の皆さんのために働いていらっしゃる。仲の良い父の級友達は、毎年のように同窓会を開催していた。
我が家から生活物資や洋服などを送り、せめてもの支援をさせていただいたが、被災者の皆さんのご苦労は計りしれない。

父は生前、ふざけて
「俺が死んだら、名取川に散骨してくれ」なんて言っていた。

その時は誰も本気で聞かなかったが、本当の父の葬儀の時、母が
「どうする?お父さんの遺骨を分骨しといて、名取川に散骨するの?」と真面目に言い出した。

「マジで!?散骨って、勝手にそんなことしても大丈夫なの?なんか許可が必要なんじゃないの?」
「あら、そうかしらね?」
分骨ったって、今、お骨を入れる器なんて無いし。どうすればいいのよ〜?
葬儀のあれこれで忙しいのに、急にそんなこと言われても困るじゃないのさ、母ヤスコよ!

まあ、しばらくは自宅にお骨はあるわけだし、分骨するなら後でも不可能
じゃないよね…と誤魔化したが、自宅の仏壇にある骨壷を開けてお骨を出す
なんて、ちょっと勇気が要るよ〜。私は無理〜。

という感じで、なんとなくその件は曖昧にしている間に、父は無事に我が家のお墓に収まってしまった。
しかし母ヤスコは気になっていたらしい。

お父さんをあれから閖上に連れて行ってあげられなかったし。
散骨は無理だけど、お父さんの好きだった帽子取っておいたから、これを名取川へ流してあげたい、と言う。

父が要介護の状態になってから、一度、弟夫妻が同窓会へ連れて行ってくれた。
皆で車に乗っての故郷・仙台近辺への旅、両親はとても喜び、はしゃいでいたのを思い出す。

それ以降も、折に触れては閖上や仙台を懐かしんでいた父ヨシオ。
しかし、大震災以降の故郷の映像などを見るにつけ、複雑な気持ちだったに違いない。

私にとっての伯母や叔父、つまり父のきょうだい達も、もちろん家族一緒に閖上で育った。
年齢の差があるので思い入れの差はあるかもしれないが、第二の故郷を大切に思う気持ちは同じだと思う。

伯母は大震災以降、何度か閖上へ足を運んだそうだ。
叔父の一人は、自分の思い出を大切にしたいから、変わり果てた故郷の姿は見たくない、行きたくないと、やりきれない思いを吐露していた。

私はといえば、ご縁のある土地だとわかってはいるけれど、あの大震災で未だ癒えぬ傷だらけの場所を訪問しても、正直、どうしたらいいのかわからない。
お気楽な旅行気分でホイホイ出掛けて行ける訳もなく、ちょっと気が重いのは確かなのだ。

しかし、父の思いと母の気持ちを考えると、たとえ変わり果てた風景になっていたとしても、かの地で父の希望を叶えてあげるべきかも…と、心を決めた。

当日は前述の父の友人Aさんが、車を出して閖上を案内してくださると言う。
Aさんのことは、よく父ヨシオから聞かされており、母は何度かお会いしたり電話で話したりでお付き合いがあったが、私は初めてお目にかかった。
父の話の通り素敵な方で、貴重なお休みの日を私達に一日お付き合いくださいました。改めてお礼申し上げます。

Aさんの車で仙台のホテルから名取市へ向かうと、テレビの映像や写真で見た閖上の町がそこにあった。ガランとして家の土台だけが並んで隙間には草が伸びている。
ポツポツと残っている建物や家もあるけれど、津波の傷跡が生々しい。

元々の町並みを知らない私だけど、このすべてに家や学校や色々な建物があ
り、人々の楽しい生活があったことはちゃんとイメージできる。そのすべてを飲み込んでいった津波、自然の猛威の恐ろしさに呆然とする。

「ヨシオさんのお家は確か…このあたりだったよ」と教えて貰った場所には、やはり家の土台が残されているだけで、あちこちに花やお線香が供えてあった。
父ヨシオと家族が過ごしたのは昭和20年代から30年代半ば頃なので、今は全然関係のない皆さんが住み、当時の父達と同じように楽しく仲良く毎日を暮らしていたに違いない。

ガランとした住宅地の片隅で、
石碑の建てられた閖上中学校で、
土砂や瓦礫の中から発見された思い出の品がまだ沢山残っている小学校で、
あの上まで水が来たと言われても信じがたい日和山で…

手を合わせ頭を垂れて、犠牲者のご冥福と、一日も早い復興を祈ることしか
できなかった。

そうこうして父のご希望(?)の名取川へ行ってみると、私の想像とは違い、かなり大きなゆったりした河川だった。のどかな小さな川だろうと思っていたのだ。
土手のあたりには工事車両が行き来し、護岸工事は進んでいるようだ。何も無くなった土地のず〜っと向こうの方には、なにやら大きな工場が建ち並んで長いクレーンがいくつも動いている。そこだけイヤに人工的で無機質で、ものすごい違和感を感じた。

あれはコンクリート工場か何かだろうな、まずは津波に備えて川沿いの補強の為にガンガ働いてくれているんだろうな、と思いながらも、受け入れがたい違和感を感じてしまったのは一体何だったのだろう。

それはさておき。
名取川から水門を経て、貞山堀という水路(川?)がある。
私の祖母アキヨさん(父ヨシオの母)がその昔、盆踊りで踊り狂った後、家に帰る途中で貞山堀に落っこちたという話を何度も聞いた。

昔のことだからきっと夜は真っ暗で、盆踊りで浮かれたテンションのまま、子供達やご近所さんとワイワイ歩いていて、土手の傾斜に気付かず転げ落ちてしまったのかな、などと想像してみると頬がゆるんでしまう。

これが噂の貞山堀か、おばあちゃんはとても働き者の苦労人だったけれど、そんなおっちょこちょいな所があったのか〜。私はそこに似ちゃったのか?
ヨシオ家にとっては、そんな間抜けなイメージをもたらした貞山堀だけれど、閖上地区の人々には全然違う意味があるらしい。

「津波が来たとしても、貞山堀よりこっち(内陸側)には来ないから大丈夫」
そんな言い伝えがあったらしく、避難が遅れて被害に遭った方も多いとのことだった。
河口近くの水門には「津波到達地点」のサインが貼ってあったけれど、あんなに無慈悲に高い波が押し寄せたら、貞山堀の規模では何のガードにもならなかっただろう。

まだあちこちが壊れたり、曲がったガードレールのある水門付近で、のんびり釣りをしている人が何人もいる。閖上は漁業の盛んな町だったが、漁港も再建途中だ。
防波堤から下をのぞき込んでみると、かなり高い。5メートル?10メートル??

「なんかさ、もっと小さい川のイメージだったから、よく見る精霊流しみたいに、お父さんの帽子をそっと流すようなイメージだったけど、これは無理だね」
「そうねえ…。困ったわねえ」と、母とAさん。

防波堤の上から、川面のテトラポットまで降りていける階段があったので、
思い切って腰の上まである閉鎖されている扉を乗り越えた。
「ちょっとアンタ、大丈夫!?危ないわよ」と母は言うが、ここまで来て何もしないで帰る訳にはいかないじゃないの。

精霊流しのイメージとは全然違うけれど、父愛用の帽子とAさんが用意してくださった花束を持って階段を下り、テトラポットの向こう側の川面めがけて、エイッと投げた。
幸いうまく水面に浮かんで、赤い帽子と花束は離れることなく、プカプカと静かに流れて行った。今は穏やかな川の流れが、父の笑顔のように思えた。

あらよっ!と扉を乗り越えて、また防波堤に戻る。まだ身軽で、運動神経も衰えていなくて本当に良かったよ。
何やってんだ、という目で見ている釣り人達を無視し、3人で合掌。お父さん、名取川に帰って来られて良かったね〜。これで約束は果たせたと許してもらおう。

その後、Aさん行きつけのお店で美味しいお食事をご馳走になってしまった。
父やお友達との楽しい懐かしいお話や、大震災の体験談も沢山聞かせていただいて、あっと言う間に帰る時間が近づいた。

Aさんには本当にお世話をお掛けしてしまいました。
父ヨシオと仲良くしていただいたご縁に深く感謝するとともに、この場にもう父は居ないことが寂しいような、一緒のテーブルでニコニコと話を聞いていたような…そんな気がした閖上の旅だった。

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■□■………………………… 今日の母ヤスコ ……………………■□■

お恥ずかしながら、我が家にネズミが出た。
丁度弟ファミリーが遊びに来ている時だったので、一匹は弟が大奮闘の末、
退治してくれた。

しかしその後も洗面所に、ネズミの尿らしき液体が出現。
糞らしきものも数回見られたが、どういう訳かその後尿ばかりになった。
拭いても拭いても、姿は見せずに、洗面所のあちこちに尿だけ残していく。

ベタベタで捕らえるネズミホイホイ的な物を設置したり、殺鼠剤的なエサを置いても、それを除けて尿溜まりが。完全に住人をバカにしている。

「あれ〜?ネズミホイホイは?」
「ベタベタして気持ち悪いから、もうどかしたわよ」
「せっかく高いお金掛けて買ったのに?もったいないなぁ」
「だって、落とした歯磨き用のコップやスリッパがベタベタになっちゃって。
エサは床がすごい紫色になっちゃったから、捨てたわ」

人間がネズミホイホイでベタベタにならないように、ちゃんとボール紙のハウス型になってるのに、展開してベタベタ部分がむき出しの状態にしていたらしい。

エサも色移りが無いよう、紙包みになっているのに、中身を出してむき出しで直接床へ置いたらしい。

何でもむき出しにすれば、効果が上がると考えたらしいが、どれも大失敗。
なぜちゃんと説明書を読まないのか?説明通りにしないのか?母ヤスコよ!

ちょっと調べてみたら、ネズミは用心深いので、急に見慣れない物があると
警戒して避ける、と書いてある。
すぐに効果が無くても、そのまましばらく様子を見て、根気良く退治する
べし、とある。

それを母にこんこんと教え、ネズミ退治グッズを説明書通りにちゃんと仕
掛けて、勝手にすぐに捨てずに、しばらく気長に様子を見るようにした。

すると、ほどなく例の忌々しい尿溜まりは無くなった。
ネズミホイホイには掛かってないので、完全にやっつけたかどうかは定かで
無いが、どうやら一安心。

古くて雑然としててエサが豊富な家なので、ネズミが出るのは仕方ないのか
もしれないが、母ヤスコの自由過ぎるネズミ退治グッズ扱いに、呆れた騒動
であった。

いつもの天然ボケの範疇だよね、これは。まだ本格的にボケるには早いよ、
しっかりしてよヤスコさん!

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■□■……………………… 編 集 後 記 ………………………■□■

尋常じゃない暑さの今年の夏は、皆さんいかがお過ごしでしたか?
夏生まれのためか、いつも「夏大好き!」と張り切っていた私ですが、連日
の酷暑やゲリラ豪雨で、そうも言っていられない今日この頃です。
この日本列島のあまりの過ごしにくさに「これは人類滅亡の始まりか!?」
なんて考えたりしますが、まあ、毎日楽しく過ごすしかできることは無いわ
けで。
ぼちぼちやり過ごしましょうね、皆さん!

話は変わりますが、母ヤスコは無事に日本絵手紙協会の公認講師の資格を
ゲットしました!
千葉県市川市でカルチャーセンターの絵手紙教室を受け持っていますので、
興味のある方は是非ご覧下さい。
(右端の『HOT NEWS』にリンク貼ってあります)
http://nanao.seven-studio.net/

●今日の格言
『そんなに大胆に太腿出しちゃって!あ、それ、二の腕か…』